2025年8月12日。松岡正剛さんの一周忌なので、編集について少し思うところを書く。

オブジェ・マガジン『遊』に出会ったのは、2024年の1月だった。神保町の小宮山書店の三階、右側の本棚に立てかけられていた1001号を手に取ったのが始まりだった。あのときの、痙攣のような感覚を、いまもずっと手放せないでいる。
✶✶✶
今日、本当は、編集の面白さと意義を太陽の下で高らかに謳いあげるつもりだった。けれど気分が少し変わってしまって、今は木陰で休んでいる。日向に出て眩い光を浴びていると、暗く湿った木陰のことは、簡単に忘れてしまうだろう。だから今日は、この木陰から言えることだけを書く。日向でのことは、いつか日向に出た僕が書いてくれるだろう。
編集とは何かーーこの答えとして多くの工程が思い浮かぶ。テーマを決めること、資料や声を集めること、それらを並べること、そしていったんばらばらにした上で編み直すこと。じっと観察すること、そこにある何かを見出すこと、それらを繋ぐ論理を自分の内側で育てていくこと。

編集は客観的な行為だと誤解されがちだが、少なくとも僕が憧れ、松岡さんが実践してきたような編集は、そうではない。創造に踏み出すための技法だ。その創造性に、これから僕はもっと価値を与えていきたい――そう思っている。
✶✶✶
話しているうちに、日向へ一人のおじいさんが現れた。打ち水をするための小さな桶と柄杓。無駄のない動きで、ためらいなく水が撒かれていく。どうやってこの手つきを身につけたのだろう。誰に見せるわけでもなく、美しい。

ほどなく、おばあさんがやって来る。よく見ると、彼女のいる辺りに沢山の花が咲いている。それらひとつひとつを確かめるように、丁寧に水をやり、持参のノートに何かを書きつけると、彼女は去っていった。

その後、若い青年が現れる。肩掛かったカメラ。ぼんやり歩いていたかと思うと、突然カメラを構えてシャッターを切る。数枚撮ると満足げにして去っていった。慌てて彼がカメラを向けた先を見るが、何もない。少なくとも僕には、価値のあるようなものは見えない。
日向の僕は、この光景に胸を打たれて叫ぶだろう。「野生の編集力だ!」と。

実際に本を作っていなくても、何かを作って発表しなくても、それぞれの生活の中に、その人なりの編集が息づいている。そこに光を当てよう。そう思う日向の僕は、取材をし、資料を集め、仲間に声をかけ、自分でも文章を書く。「野生の編集力」をより多くの人に届け、そこからさらに面白いものが生まれるように、心を配って編集する。そして一冊の本ができる。

すると、良いことがたくさん起こる。自分たちのやってきたことにはこんな魅力があったのかと喜んでもらえ、プロ偏重の流れに小さな穴をあけ、眠っていた才能や傑作が見つけ出すことが出来る。そこからさらに多くの可能性が生まれていく。

編集は面白い。創造的だ。人の役にも立つんだ。日向の僕はそう叫ぶ。
✶✶✶
確かにそうだ、と僕は頷く。確かにそうだ、確かにそうだ…

それでも、と日陰の僕は息も絶え絶えにつぶやく。編集することは、身勝手で暴力的だ。頓珍漢にもなり得る。
たとえば、あのおじいさんは、静かに続けてきた手順を乱されたくないと怒るかもしれない。

おばあさんのノートは、花とはまったく関係のない私的な記録かもしれない。こちらの推測が外れているとしても、うまく言い出せず、間違った評価に悩まされて、彼女はひとり部屋で涙を流すかもしれない。

青年は匿名で活躍する写真家で、「野生」などと名指されること自体が誤りかもしれない。

編集は可能性を作り出す。だが、その可能性のすべてに、編集者は本当に責任がとれるのか。
✶✶✶
わからない。僕は下を向く。
✶✶✶
声がする。日向の方から声がしている。その声と面影を、僕はどうしても感じ取ってしまう。

身勝手で、暴力的で、頓珍漢になりかねない方へ、なぜ進むのか。なぜ。なぜ…
✶✶✶
ここにいる僕はいつかいなくなるだろう。それでも、この僕の面影を、日向の僕が感じられるように。僕はこうして言葉を紡ぐ。
✶✶✶
風が吹く。暖かい光が差してくる。小さな子どもたちが駆けまわっている。どこからか蝶が舞ってきて、僕の足もとに止まる。遠くの山々は白く輝いて、草の緑と良い対照を成す。暖かな風。やがて蝶の羽の動きも止み、僕は眠りにつく。

You may also like

Back to Top